風車監督官日報

風車を監督している

つぶやき怪談/文化とノスタルジー

稲川淳二Twitterアカウントをフォローしている。時々つぶやき怪談というのをやっていて、わりと長い怪談を淳二が小分けにツイートするというものだ。稲川淳二はツリー機能を使わないので、クライマックスのお化けの正体がいちばんに目に入ることがよくあって、それはそれで面白いけど怖くはないなあ、と思っている。

稲川淳二はしつこいくらいに被災地へのお見舞いを投稿する。毎日だ。最近だと能登半島へのお見舞いをよくする。

なんでだろうと思ったけれど、あー、死んだ人で商売をしているようなものだものなあ、とすぐ納得した。稲川淳二は怪談もいいけれど、時々話の枕でやる幼少期の思い出話や身の回りのエピソードトークも好きだ。

 

 

「現代短歌」24年5月号を手に入れたので座談会をようやく読んだ。私の歌についてはかなりドライな言及しかないけれど、それが嬉しい、と思った。感想は本人に会った時聞けば詳しく教えてくれるだろうし……。「文化とノスタルジー」というはっきりしたキーワードをくれたのも嬉しい。どちらのワードもなんとなく、私ってそうかなと感じていたけれど、嫌なので見ないようにしていた性質だ。どちらも私はとくに面白いと思わないからだ。

もうそれはわかったからいい加減次に行こうぜ、と思っていたところだったので人から言ってもらって安心した。でもそれが私のいいところならいいところを見てあげてもいいかもしれない。

 

高校の友人が雑誌を買ってすぐ読んで感想を送ってくれた。「私はこの歌が好き。うちの母は……」と言われて、同級生のお母さんに読まれてんだ……とすこしおどおどしてしまった。でもありがとう。Aちゃんママも、ありがとうございます。

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「現代短歌」のアンソロジー特集に掲載されています

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現代短歌 2024年5月号 | 現代短歌社オンラインショップ

 

クールなリスが表紙の雑誌「現代短歌」2024年5月号(3月16日発売)の特集に載せていただいております。既発表作と新作を組み合わせた10首連作と、さらにショートエッセイを寄せました。歌は2020年以降に作ったものから選んでいますので、私の好みがギュッと詰まってて趣味まるわかりの連作になりました。連作のリミックスって初めてだったけど、結構楽しかったです。

 

SF Prologue Waveに書評が掲載されています。

学生時代にシミルボンに投稿した書評を、SF Prologue Wave様のサイトに再録していただきました。

 

sfwj.fanbox.cc

 

ひさしぶりに自分の書いたものを読み直して、当時はいろいろとつらくて、もろくなったロボットとかへっぽこな主人公のキャラクターにずいぶん気持ちを助けられたなあとなつかしくなりました。今ならもっとうまく書ける、とも。

文中に出てくるこのアルバムは本当にとてもおすすめでずっと大好きな一枚です。

 

open.spotify.com

 

 

マクドナルド、廃バス、からくり人形/小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」

書評投稿プラットフォーム「シミルボン」に掲載していたものを加筆・修正して載せています。

 

高校3年の11月、模試の点数が伸び悩みイライラが頂点に達した私は、高校をサボって予備校が開くまで駅前のマクドナルドで小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んでいた。日差しはあたたかいが強い北風が吹き荒れる日で、感度の良い自動ドアが、人が店の前を通るたびに開いては木枯らしと落ち葉が店内に吹き込んできた。「猫を抱いて象と泳ぐ」を読むとその日の足の間を吹き抜けていった冷たい風と、やわらかい日差しのことを思い出す。 

 

「猫を抱いて象と泳ぐ」はチェスを中心に展開される物語だが、ボードゲームやスポーツを主題として多く発表されているような頂点を目指して主人公が努力する、という筋の作品とはすこしちがって、むしろ主人公はそのような華々しい道からどんどん外れていく。 主人公 “リトル・アリョーヒン” は11歳で肉体の成長が止まった青年で、文中では「彼は大きくなることを拒んだ」ゆえに身長が子供のままであるという記述がされている。しかも彼は下唇に脛の皮膚を移植したため毛が生えており、学校や同世代の子供たちのコミュニティでは彼は容姿が理由で阻害されている。生来の引っ込み思案な性格やこのような成育歴からか、彼はチェス盤の下にもぐって身を隠しながらチェスを指す独特の戦法を習得する。さらにリトル・アリョーヒンにチェスを教えたる先生である“マスター” は廃バスを改築して暮らす甘味好きの巨漢で、わざわざ悪く言えば「変わり者」の「肥満中年男性」だ。 唇から毛が生えた小柄な少年と、変わり者の肥満中年男性が廃バスの中でチェスをする。そこから物語がうごきはじめる。

 

小川洋子は、社会のはみ出し者をよく書く。物語の主人公として形作られる美男美女ではなく、現実世界では抑圧される人々にスポットライトを当てることが多い。 たとえば『博士の愛した数式』も、記憶障害を持つ数学者と母子家庭の親子(しかも息子“ルート”は頭部が奇形である)が主人公である。過食になってしまったことを恋人に言い出せない若い女(シュガータイム)や、老いた母のためにコンソメスープを一から作ることに生活の大半をつかう夫人(コンソメスープ名人)も。小川洋子がそんな作中人物たちにあてるスポットライトは、眩しい直射光線ではなく、やわらかい冬の陽だまりのような光だ。

もうひとつ、小川洋子の作品の特徴として多く用いられるのが「隠れ家」のモチーフだ。『薬指の標本』の朽ちかけたアパートや、『博士の愛した数式』の博士の住む離れの小屋。短編ならば『完璧な病室』、、枚挙に暇がない。その「隠れ家」というモチーフが最も有効に使われているのが『猫を抱いて〜』ではないだろうか。“マスター” の住む廃バスから始まり、からくり人形の中、山奥の誰も訪れない老人専用エチュードなど、外界から隔てられた小さな秩序の維持と綻びが、物語の中で何度も繰り返される。しかし「隠れ家」だからと言って外界を閉ざすために作用しているわけではない。狭いチェス盤の下にもぐることが、リトル・アリョーヒンにとって最も深く他者と対話する方法だったというだけだ。リトル・アリョーヒンにとって幸福だったことは、それを理解してくれる人々が周囲に多くいたことだろう。

 

この物語の中で大きな役割を果たすのがタイトルにも登場する猫と象だ。特に象は主人公リトル・アリョーヒンの幼少期の空想の友であり、かつインドチェスにおいてはビショップ駒にかたどられていた動物ということもあって大切な存在である。 日本でもかつてデパートの屋上に遊園地や小さな動物園が作られたことがあったと言う。リトル・アリョーヒンのイマジナリーフレンド、象のインディラはかつてデパートの屋上動物園で飼育されていた象だった。子象の間だけデパートが借り受ける予定であったが成長したために屋上から降りられなくなり、死ぬまでをデパートの屋上で過ごすことになったという哀れな象。リトル・アリョーヒンはこの象の半生と、肥満のマスターの凄惨かつ滑稽な死に方によって、大きくなることを極端に拒むようになる。彼の願いを聞きとどけたかのように、リトル・アリョーヒンの身長は11歳のまま止まる。

リトル・アリョーヒンが小学生の背丈で身長を止めたことは彼の願いそのものとは実際は関係がなく、単にそうなるべき体だった というだけなのかもしれない。マスターは職場ではとても疎まれ、嘲られていたかもしれない。それでも彼らの物語はなによりも神聖であたたかい。大きな声を上げようとせず、自分にできることを全うして人知れず消えていく人々の物語は、犬に追い立てられる羊のように闇雲に勉強していた私の目を晴れやかにしてくれた。

余談だが、その年のセンター試験世界史Bでは、「世界のボードゲーム」を主軸とした問題文でインドチェスが紹介され、ビショップと象について言及された。私のところにもインディラが来てくれたのだ、と殺風景な試験会場で嬉しくなったことを、はっきりと覚えている。

私のいられない浜辺/寺沢閖

 ずっと浜辺にいた。少なくとも初潮が来る歳まではそうしていたと思う。初めて下着が血で汚れたときに、夏の汽水域と同じにおいだと思ったのを覚えているからだ。そのあと、ハイとの殴り合いで負けてあの場所には行かなくなった。

 

 駅の周りは住宅街。川をまたぐようにバイパス道路。五キロほど下れば河口付近に倉庫街とスチールの再生工場。工場と隣り合って川沿いに延々と続く錆びたフェンスの向こうには、ずっと中断したままの産廃処理場の建設現場があって、いつの間にやらどこかの解体業者が廃棄土砂を勝手に捨てていくようになった。土砂は積もって、一人がやればほかのやつらもやるもんで、粗大ごみだ、廃車だ、全部やってくるようになった。やがて土砂に木が生えて、遠くから見るだけならかわいらしい緑の丘になってしまった。私たちは始終この丘のあたりをうろちょろしていた。フェンスをくぐってごみの丘をつっきり、護岸ブロックづたいにぐらぐら歩く。すると狭くてしめった浜辺に入ることができるからだ。見つけたのはハイで、ボスもハイだ。賢くて手先が器用だったので、流れてきたほつれだらけのビニールシートと流木をつかってあっという間に小さな日陰を作れたし、火熾しもはやかった。それに「ハイ」という冬の朝日のようにきりりとした響きの名前は文字では「海」と書くから、この浜辺の領主は彼以外いないのだ。

「じゃあ、その海という男が今どこにいるのかわかりますか?」

 私は首を横に振った。

「わかりません。小学校を出てから会わなくなってそれきりです」

 私の答えは予想通りだったようで、初老の刑事は小さくうなずき、なにやら短く書類に書き込んだ。それが終わると丁寧に捜査協力への礼を述べ、扉を開けてくれた。

「またお呼びたてするかもしれません」

私はいえ、とかもごもご言いながら立ち上がって個室を出た。正面入口を出ると、電柱にもたれかかってアディティが私を待っていて、自動ドアから現れた私を見つけて背中を電柱から離し駆け寄ってきた。

「すぐ終わって良かったね」

「良かったけど、せっかく有給取って帰ってきたのに、アディから聞いたことと同じことしか教えてくれなかった」

アディティは私より一週間早く同じ事情で呼ばれ、同じ質問を受けていた。産廃処理場の敷地内に入ったことがあるか、それはいつ頃か、誰かと一緒だったか、一緒ならば当時の仲間とは今も連絡が取れているか。警察官は特にハイのことを聞きたがり、ご存知かも知れませんが、と言いながら彼の最も新しい写真を見せてくれた。写真が撮られたのは三年前で、場所は二駅隣の繁華街だった。小さな居酒屋の店先で煙草を片手に照れ笑いするハイが、赤い灰皿の横に一人で立っている。この写真の撮影から半年ほどのち、ハイは借りていた部屋を引き払わずに出て行って仕事にも行かなくなり、以来失踪扱いになった。

 十年以上も凍結されていた産廃処理場の工事が再開された矢先、腹部でまふたつに切断された成人男性の遺体が丘から出た。土砂の撤去中に白骨化した下半身がまず見つかって、警察が来てまもなく近くの廃車の中から上半身も見つかった。こちらも白骨だった。身元の調査が難しく、周辺で行方不明になっている似た背格好の男が洗い出され、その中にハイもいた。でも私もアディティも、その骨はハイではないだろうとうっすらわかっていた。

 

頼まれた通りにドリンクバーでコーヒーを汲んできて渡すと、アディはそのカップを両手で包み込んで中をのぞきこみ、底が見えそうに薄いねと言った。向かいの席につきがてら彼女の頭部に小さな脱毛箇所を見つけて、今日ずっと彼女を見上げていたことに初めて気付く。子供のころのアディは背の順の一番前でふくよかな体つきだったけれど、今日会ったら私より背が高くなっていた。オイルでまとめられた長い髪をきっかり真ん中で分け、肩から背中に流している。デコルテの少し大きく開いた灰色のセーターから伸びた長い首、そしてなめらかにカーブして少し突きでたあごが、クジャクの雌のように高貴だ。裾がゆったりと台形に広がるセーターときゅっとしまった濃い色のジーンズで、スタイルも良く見える。子供のころは少しぼんやりしたところがあって恥ずかしがり屋だったのに、今では爪の先まで自信たっぷりに見える。そんなアディの完璧な全身の中で禿げだけが浮いていた。禿げは私から見て髪の分け目のすぐ左側に、まっすぐな道がふくらむようにできてた。

「アディとハイは中学校も一緒に上がったんだと思ってた」

「上がったけど、ハイは二年の夏休み前で転校してそれっきりだったんだよ。もっと遠くに引っ越したと思ってたから、写真見てびっくりした」

うなずいてこちらが話そうとした途端、背後の席で笑い声が起きた。きゃらきゃらと、古いドアのきしむような、ぶさいくな鳥の地鳴きのような、こすれあう笑い声に会話を邪魔され、アディはあからさまに不愉快そうな顔をした。小声で

「私ああいう笑い声って大嫌い」

と私にだけ聞こえるように言い、私も苦笑いで応える。首筋のうすら寒くなって毛の逆立つような、たしかに不愉快な笑い声だったけれどそこまで言うほどのことか、とも思いつつ。笑いの波がおさまって、さっき自分がなにを言おうとしていたのか私が思い出しているうちに、アディティが口を開いた。

「どうしてサチは来なくなったんだっけ?」

「そりゃ、ハイと喧嘩したから」

「それは覚えてるけど、なんで喧嘩したのか、ハイに聞いても教えてくれなかったし、サチも言ってくれなかったじゃん」

 私は思い出そうとして、カップの中のティーバッグを上下にゆらしながら考えた。ラベルにイチゴが描かれているけど、いくら待っても出るのは色だけで、イチゴの香りなんて少しもしてこない。染料をといたような赤い色水にしかならない。あきらめてティーバッグをお湯から出し、したたる水滴がカップにすべて落ちきるまで考えたけれど

「だめだ、ぜんぜん思い出せない。急にもう来るなって言われて、怒って本当に行かなくなってそれっきり」

「そっか、まあ子供の喧嘩のきっかけなんて、あってないようなものだからね」

 そこでまた後ろから不快な笑い声がおきた。そのたびにアディティのこめかみがはちきれそうになるので、とても落ち着いて話ができるような席ではない。私はとりあえずで頼んだクラブハウスサンドを一切れつまんで、ぬるいトマトを先に前歯でひきずりだして食べながら、目の前で頬杖をつくふりをして耳の穴をふさいでいるアディティを見つめた。

 本当にきれいだ、アディは。子供のころからずっとアディティはひときわ綺麗だよと本人にも周囲にも言ってはばからなかった。それは今も変わらないどころかいよいよもって美しかった。言ってくれなかったじゃん、と唇をとがらせながら上目遣いにこちらを見上げたアディの、褐色がかったまぶたは明るい朱色の粉が広くまぶされていて、ガラナの実。私は図鑑で見て以来あの蠱惑的な果実のことが大好きなのだが、アディの今日の目元はそのガラナにあまりにも似ていた。

 私は自分の味のない色水を飲み干し、次の飲み物をとりに席を立った。アディティは当然のようにカップを差し出してきた。またホットコーヒーでいい? と聞くと彼女はうなずきかけてすこし視線を宙に泳がせ、やっぱりエスプレッソにして、と私に微笑みかけた。

「ここのコーヒー薄すぎる。もっと濃いのでお願い」

 

 もうほとんど崩されていると思ったが、撤去作業がはじまったとたんに白骨死体騒ぎが起きたせいで丘はほぼ昔のまま原型をとどめていた。より鬱蒼と植物が茂ってさえいる。 警察官や作業員の人影はひとつも見えず、ネオンサインが「立入禁止」と点滅しているだけだった。フェンスに空いた、子供が出入りできるくらいに針金が切られた穴もそのままだった。髪の毛や手のひらが傷つかないように針金の断面をまるめたのはハイの仕業だ。アディがしゃがみこんで穴を検分し、半分ほど頭をつっこんでみたところで、あきらめて立ち上がった。くぐれないことはないが、さすがに全身どろまみれになる度胸はなかった。

いつもここからくぐってたけど、さすがにもう無理ね」

「もう少し掘ればいけるんじゃない?」

と灌木の茂みに落ちていたトタン板の破片を引きずり出してきた私を見て、アディは真珠の歯を見せて笑った。

「それでこそサチね」

 土は柔らかくてすぐに掘れ、私達は膝が汚れるのもおかまいなしにフェンスをくぐった。丘は少しだけ斜面がえぐられ、三角コーンや目立つ色のテープがそこかしこにある以外昔とほとんど変わっていなかった。埃と土と錆のまざった匂いが、私を一気に二十年前に引き戻す。私たちはここでいろんなものを拾った。穴の開いたソファ、蓋の取れた電子レンジ、真空管の抜かれたテレビ。ソファは固くなったスポンジを切り取って古いTシャツを詰め込んで修繕し、電子レンジは上流から流れてきて打ちあがったいろいろな宝物入れに、テレビは時々つかまえたトビハゼや川エビの水槽にしていた。

「昔はなにも思わず出入りしてたけど、よく考えると不法侵入なんだよね。しかも死体遺棄事件の現場を荒らしてるわけだし」

 そんなことを言いながらうろうろと歩き回っていると、丘を囲うフェンスの外にはなにもないような気がしてくる。すぐ向こうはほこり臭い、速度規定を守ればすかさずクラクションを鳴らされるような産業道路なのに、一枚薄いフェンスを越えたらなんて静かなんだろう。

突如背後から大きなクラクション音とガラガラとがれきの崩れる音がして、私達は慌ててフェンスのそばまで駆け戻った。割れたパレットの破片や、しぼんだタイヤなどの小さなものが中腹でくずれて落ちてきていた。しかしがれきの崩壊はすぐにおさまり、クラクションもすぐに鳴りやんだ。どれだけ見渡しても人が現れる気配もなかった。

「あ」

右手をかざしてひさしを作りながら音の出所を探して目を凝らしていたアディティが、私たちがいた場所のすぐ頭上を指さした。見ると、車体の下半分が土に埋もれたクーペのボンネットに、二羽の鳩がとまっていた。すこし行けば整地された公園も芝生の河川敷もあるのに物好きな、と思っていると、ついでフロントガラスのあったはずの窓枠をぴょんと飛びこえてもう一羽あらわれ、鳩は三羽になった。鳩たちはとくに鳴くこともせず、くちばしで翼の下のかゆいところをつついたり、頭をななめにかしげてじっとこちらを眺めるしぐさをしたりした。目の見える鳩なら、の話だが。三羽の鳩は目がなかった。目のあるはずの場所にはうつろな眼窩も閉じられたもなく、濡れたように光る短い羽毛がびっしりと張り付いているだけだった。

「きっとここのものを食べてるせいでああなるのね」

 ひとしきり彼らを眺めたアディがつぶやいた。目が見えないからなのか、鳩たちは人が間近まで近づいても逃げずに観察させてくれた。さっき一羽が車体の中から飛び出てきたのは、うろうろとボンネットの上を歩き回っては足を踏み外して座席に落っこちるからだというのが、見ていたらすぐにわかった。落っこちた鳩はすこしだけ慌てて羽ばたくけれど、すぐに何事もなかったようにボンネットに上がってきてまた他の二羽のもとに加わる。間抜けでおかしくて、いつまでも見ていられた。

「でも全然困ってなさそう。目が見えるっていう発想もないのかな」

「そうかも。もともと持ってないから、ないことに気づかないんだろうな」

 ずっとうろうろ歩き回っていた鳩たちが一斉に飛び立ったのは、河川敷のサイレンが鳴ったせいだった。河口放水路解放の合図のサイレンだ。私は昔からこの音が大嫌いで聞くと心臓がばくばくするから、今も咄嗟に耳に指を突っ込んだ。サイレンは河川敷に百メートルおきに設置されたスピーカーから一斉に鳴り、それが全部ずれて聞こえてくるせいでいつまでもいつまでも終わらないのだ。アディは全く気にならないようで、背中を丸めて耳をふさぐ私の横で飛び立っていく鳩を目で追っていた。

「浜辺のほうに行った」

 アディが私にそう言ったのがサイレンの渦の中でかすかに聞こえた。

 工事現場を囲うフェンスの河川敷に面したもうひとつの穴をくぐり抜け、護岸ブロックをつたって二十メートルほど先の河口まで移動する。大人の体でブロックをつたって渡るのは思っていたよりむずかしく、しかもまだ遠くでサイレンが鳴っていたので頭がくらくらした。

潮の満ち引きにかなり面積を左右される小さな砂浜に満潮でもなんとか水没をまぬがれる部分があって、そこが私たちの「浜辺」だった。いつも血のようなにおいがしていて川からも海からもあらゆるきたないものが流れてくるし、生活排水を常に垂れ流す排水管まであったけど私たちにとっては王国だった。蟹の歩く音が聞こえる。トビハゼの吐く息をかぎとることができる。それ以外はなにもないから、持っていないことすら知らなかった。

そこが河口であることを知らせてくれるのは護岸ブロックのゆるやかなカーブだ。私とアディティはブロックにつま先をかけてよちよち進んだ。昔より時間がかかるし、アディティが二回、私が一回足をすべらせた。鳩は飛べていいよねなどと言いながらようやくカーブを曲がって、ようやく乾いた土地に足を下ろすことができた。

見えているものを疑う力がこんなに自分にあるなんて知らなかった。まず幻覚かも、と思い、次に別人かも、と思い、次に土人形かも、と思った。けれどそこにしゃがんで鳩を眺めているのはハイだった。警察署で見せられた写真のとおりだったし、なにより私たちの王国の王様を見まちがえるはずがなかった。私の足が砂利を踏んだ音でさっと立ち上がりこちらを向いたハイは、一瞬たいへんな怒りを目にたたえていたけれど、私と、そして私の背後でどすんと両足で砂に着地したアディを見て表情をはっと変えた。笑いこそしなかったけれど、少なくとも安心したようだった。

「幸(サイワイ)、アディティも。どうして?」

「ハイ、私、あなたが行方不明で白骨死体かもしれないって警察に呼ばれて帰ってきたんだけど」

 私の言葉にハイは「白骨?」と眉をひそめ、すぐに「ああ」と息を吐いた。

「廃車のトランクに入ってたやつか。売れそうなパーツがないか探してたときに見つけて引きずりだしておいたけど、誰だかなんて知らないよ」

「やっぱりね」

 アディが笑った。これからもっと掘り返したらあと何人分か出るかしれない。

「ここに住んでるの?」

「いや、毎日採水とあの子たちの観察に来てる」

そう言って肩越しに鳩たちのほうを振り返った。鳩は足を体の中にしまい込んで、すっかりくつろいでいた。目があれば、まぶたをとじてうとうとしているのが分かったかもしれない。

 ハイは背負っているナップサックからアルバムを取り出し、中の写真を見せてくれた。すべて奇形の鳩の写真だった。

「何年か前はもっといろんな奇形がいた。片翼が小さかったり、脚が一本だったり、胸の羽毛が生えてこなかったり、鳴き声が出せなかったり。この眼球欠損の個体だけは二代目が生まれたけど、あとは卵を産まずに短命で死んだな」

 今ここで立って話しているハイがなぜ行方不明ということにされているのかはわからない。ハイは話す気がなさそうだし、アディティも詳しく聞く気はなさそうだった。でも私はそのことに気をとられて、渡されたアルバムをめくりながらも気の毒な鳩にあまり関心を持てないでいた。顔を上げるとハイはアルバムを眺める私たちにはかまわず、護岸ブロックから突き出た排水管のところへ移動していた。採水と言っていたからあそこから流れる水をとっているのだろう。ブリキのバケツになみなみとたまっていた。

「その水どうするの?」

「まあ飲んだり」

「飲むの?」

 驚いたのは私だけで、アディティはぎょっとする私を黙って横目でちらりと見て、その視線をすぐにハイに戻した。ガラナの実が風にゆれただけ、意味なんてない、という感じで。でも私はなにも言われなかったのが逆に怖くて、続けて口にしようとした「汚くない?」を寸前でひっこめた。ハイ自身はとくに気に障ったふうもなく

「意外ときれいなんだよ。終末処理場からひっぱってる管だから」

とだけ言い、バケツの中の水を何本かの水筒に分けた。この感じだとたぶん、彼は水道の契約をしていないのだろう。水の確保が終わると今度は、杭にひっかけてあるロープをひっぱった。流木を砂に突き刺しただけの杭だ。ロープは芦の草むらのなかに伸びていて、ハイがするすると何度かたぐりよせると水色に塗られた小さなボートが芦を押しのけて姿を現した。ボートを砂の上にひっぱりあげ、ハイはようやくこちらを向いた。

「塀沿いにいな、昔より水量が多いから」

 そうだった、サイレンを聞いてここに来たんだった。と納得している間もなく、ごぼ、ざぱ、と音がして芦ののびる水面が大きく揺れた。放水だ。私はブロックにとびついて二、三段ほどよじのぼった。ここなら波打つ川面をしっかり見ることができる。サイレンは嫌いだけど放水は好きだ。

 放水は一キロほど上流にある止水板が水量調整のために開放されることで起きる。この時だけ、川は都市の一部でなくなり好き勝手に波をたてて暴れるのだ。少し潮臭いにごった水が波打っておしよせる。白い泡がたち、波にあおられて驚いたぼらが何度か深いところで跳ねた。私は子供のころ、何度か水際ぎりぎりでぼーっとしていて頭から波をかぶった。川の中ほどで腰までつかって貝を採っていたアディティが間に合わず流されそうになるのを、ハイと二人で引っ張って助けたこともあった。あのぐらぐらの杭だけだったらボートはあっという間に流されていただろう。波は五度、六度浜辺にかぶさってすこしずつ勢いを弱らせていき、落ち着いた。あとはもう、もとの成功した治水事業の姿だけだった。ハイは引き上げたボートの中に立ち、アディティはつま先立ちでブロックによりかかっていた。水が引いたのをみはからって、私は両足で砂へ飛び降りた。久しぶりに見る風景に胸がいっぱいだった。草船を何艘転覆させたっけ。離水しそこねた鴨が流されていくのを見て大笑いしたっけ。

「なつかしいね。三人でさ、毎日ここでこうしてたよね」

 当然同意が得られるものと思って満面の笑みでそう言ったように思うが、二人の、とくにハイの反応はいまいちだった。

「なつかしい、まあそうか、なつかしいか。なつかしいね」

 アディティは小さい子供に向けるような優しい笑みでこちらを見ていた。私はたぶん笑顔のまま二人の顔を交互に見ていたと思う。足元でドゥドゥ、という鳩の鳴き声がしなかったらあとどのくらいそうしていただろうか。鳩はときどき波打ち際に足をつっこみながら砂をつついていた。ハイがしゃがみこんで手を伸ばしたけれど、鳩は二、三歩小走りに逃げてハイから離れた。

「俺が幸に」

 鳩に触れられなかった指先をゆらゆらさせながらハイは再び立ち上がり、

「俺が幸にもう来ないでくれと言ったのは、お前が、『これからもずっと一緒にここにいようね』って俺たちに言ったからだ」

 ガラナの実は下を向いていた。鳩は歩いていた。ハイの体の向こうに海が見えて、タンカーが夕日を隠していた。ハイという冬の朝のようにきりりとした響きの名前は文字では「海」と書くから、この位置から海(ハイ)の横顔を眺めるのが好きだった。

私とハイはしばらく見つめ合った。ハイの眼はわからないのか? と問いかけてきているみたいだった。この沈黙をやぶったのは鳩ではなく、タンカーの汽笛とアディティのえずき声だった。アディティはずっとブロックによりかかっていたけれど、タンカーの汽笛に胃をゆらされたのか、かさなるように「う」とうめいて、すぐに口を押えて波打ち際に走った。

「アディ、どうしたの? 体調悪い?」

「ごめん、大丈夫。実はちょっと重くて」

重くてって、

「生理?」

 アディティが深呼吸しながら首を横に振る。

「じゃあもしかして」

 アディティの背中をさすっていた手が思わず止まった。

「だめじゃない。カフェインとったり高いところから飛び降りたりしてたでしょ」

「いいの、産みたくないから」

「そんな」

「幸」

 ハイは手先が器用で、賢くて、私とアディの王様で、この浜の領主……。

「もう帰って。ここはきっと幸にはもう正しくなさすぎるから」

 タンカーの後ろから現れた夕日が私の左半分を灼いて、まぶしくてきっと険しい顔をしていた。ハイも同じ光を浴びているはずなのに、少しも表情を変えずにこちらを見ていた。鳩が歩いてきて私のつま先に胸を押し付けながら座り込んだ。

「鳩は誰が危害をくわえないかをよくわかってる。俺とアディはだめだ。だめなものの中にしかいられないから」

 私はハイの言葉を聞きながら、足元でくつろいでいる鳩を見下ろしていた。

「なんでそんなことわかるの? アディにだって今までずっと会ってなかったんでしょ」

 ハイは護岸ブロックの方をふりかえり、フェンスの向こうに見えている緑の丘の頂を見上げた。

「あそこのてっぺんからそのうち冷蔵庫に詰め込まれた男の遺体が見つかる。アディのことを知っていると言ってた。二か月くらい前に同じ現場で仕事した奴だ。アディとおなじ中学だって言ったら、自分からべらべらしゃべったよ」

 私はまだ鳩を見ていた。隣でアディティが荒い息とともに

「そうかなって思ってた」

とつぶやいた。

「幸のことはずっと大事だよ」

「そうだろうね。いまだにさいわいと呼んでくれるし」

 私は鳩を驚かさないよう、そっと足をどかした。鳩は少し居住まいをただしただけでその場を動きはしなかった。抜けた羽毛がくちばしにひっかかって風になびいていた。私はどかした足を高く持ち上げ、鳩の頭の真上で止めた。いつでもまっすぐおろして踏みつぶせる位置で。ハイは黙ったまま腕を組んで私を見ていた。

 

初めて下着が血で汚れたときに、夏の汽水域と同じにおいだと思ったのを覚えている。誰かが教えてくれた。大人の入り口なんだよ。そう言われて私は不安になったのだ。大人になってもあの浜辺はそのままだろうか、私はずっとあそこに座っていたかった。くぐりたくない入り口を知らない間に通っていて戻れなくさせられた気がした。だからハイに言ってほしかったのだ、ずっとここにいていいと。

帰り道は来た道しかなくて、私は必死にブロックをよじのぼった。フェンスにしがみつき、つまさきがすべらないように体の向きを変えてようやく浜を見下ろすと、ハイが具合の悪そうなアディティをボートに乗せ、漕ぎ出すところだった。オールがきしむ微かな音を合図に、鳩が飛び立って頭上を通りすぎていった。二人は一度もこちらを見ることなく、芦の群生の中へ消えていった。私だけが必死に壁にへばりついて、どこにも行けない。

村上春樹「木野」とか好きだなと思ったものたち

村上春樹ではずっと「神の子どもたちはみな踊る」が一番好きだったのだが、千葉駅のなかのくまざわ書店で駆け足で買った「女のいない男たち」収録の「木野」がとても良く、一位に躍り出てきた。

ランニングシューズの営業マンだった主人公の木野が妻の不倫を機に脱サラしてバーの店長になり、ようやく平穏な日常を送れるくらいに落ち着いたと思ったところから不穏な影が日常に忍び寄ってきて、事情通な謎めいた客に「逃げ回れ、はがきを出せ。宛名以外書くな」と命令され、それから……。という、ホラーだろこれ、という短編なんだけど、ちゃんと結末らしい結末があるのが面白い。ぐねぐね踊って主人公がなにかを理解して終わり、とか、キーパーソンが失踪して終わり、とかではない。木野が自分の心の中の問題にちゃんと向き合って、答えを出すところを見届けられたのがとても良かった。

 

最近睡眠が不規則だし安心して眠った感じがしない。ここ1ヶ月。夜中に起きたり、朝早く起きたり、起きると気持ち悪かったり。それに機嫌が悪いと会社や道端でボロボロ泣いてしまって止めるのが難しい。色々見当のついてる原因はあるが、すっかり解決できるようなことでもないので、だまって見ている。というか、今まで見ないようにしていたことが噴出しての現在の状況なので、どうしたらまた見ないようにできるかしらと思ってたのだけど、「木野」をちょうどそのタイミングで読めたことで、あーちゃんとしないとな。と思い直した。ただ地獄を進む者が悲しい記憶に勝つ、って星野源も言ってるしな、と腹をくくれたのでこの4月5月は大成功だったと思う。

 

カネコアヤノを初めて聴いた。友人に「祝日」のライブ映像を見せてもらって、なにこの肉食の鹿みたいな眼の怖い女……とびびって、でもとても好きだなと思ったのでずっとその1曲を聴いてる。

 

好きな女性シンガーと言えば寺尾紗穂と永原真夏なので、今月は寺尾紗穂がピアノ・ボーカルのバンド「冬にわかれて」も久しぶりに聴く。来週アルバム出るので楽しみ。

セカンドの1曲目「もうすぐ雨は」は歌詞がすごく怖い。雨がもうすぐ止むと言われた主体はその言葉を信じて外出し、曖昧な約束をたよりに人に会おうとする。主体の、信じる という行為を、その結果がどうなったのかには言及せず、ただ尊重する歌だと思った。最初は描写にウェイトを置いてると思って安心して素朴な気持ちで聴いていたのに、後半で急に寓意とモチーフの話が挿入されたことに驚き、この不意打ちに電車の中だったけどポソポソと泣いてしまった。まじで素晴らしいな、寺尾紗穂の歌詞まじで素晴らしい。

 

5月に30度超えてて笑う。ほんとに暑い。

3-23

3/23 水曜日 16℃ 小雨 2m/s,ESE

 

数年前によく会っていた女の子が旅先から絵葉書を送ってきた。ルピナスの咲く野原と、遠景に雪の残る山脈がそびえる絵葉書の表面には短く旅を楽しんでいると書かれていたが、俺はそう言いつつ彼女がかつてを思い出し懐かしんでいるように感じられた。

食品加工所の事務室の電話番で、仕事が暇な時にペーパーバックの恋愛小説を読み漁ってはうちへ勝手に置いていった。その後、製品不備の指摘について電話してきた客を口汚くののしったのが理由で解雇され、知らぬ間に町を出たっきり会っていない。顔を思い出そうにももう霧の向こうにいるように曖昧で毎回人相が変わる。よく俺の家の住所を覚えていたものだ。