風車監督官日報

風車を監督している

マクドナルド、廃バス、からくり人形/小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」

書評投稿プラットフォーム「シミルボン」に掲載していたものを加筆・修正して載せています。

 

高校3年の11月、模試の点数が伸び悩みイライラが頂点に達した私は、高校をサボって予備校が開くまで駅前のマクドナルドで小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んでいた。日差しはあたたかいが強い北風が吹き荒れる日で、感度の良い自動ドアが、人が店の前を通るたびに開いては木枯らしと落ち葉が店内に吹き込んできた。「猫を抱いて象と泳ぐ」を読むとその日の足の間を吹き抜けていった冷たい風と、やわらかい日差しのことを思い出す。 

 

「猫を抱いて象と泳ぐ」はチェスを中心に展開される物語だが、ボードゲームやスポーツを主題として多く発表されているような頂点を目指して主人公が努力する、という筋の作品とはすこしちがって、むしろ主人公はそのような華々しい道からどんどん外れていく。 主人公 “リトル・アリョーヒン” は11歳で肉体の成長が止まった青年で、文中では「彼は大きくなることを拒んだ」ゆえに身長が子供のままであるという記述がされている。しかも彼は下唇に脛の皮膚を移植したため毛が生えており、学校や同世代の子供たちのコミュニティでは彼は容姿が理由で阻害されている。生来の引っ込み思案な性格やこのような成育歴からか、彼はチェス盤の下にもぐって身を隠しながらチェスを指す独特の戦法を習得する。さらにリトル・アリョーヒンにチェスを教えたる先生である“マスター” は廃バスを改築して暮らす甘味好きの巨漢で、わざわざ悪く言えば「変わり者」の「肥満中年男性」だ。 唇から毛が生えた小柄な少年と、変わり者の肥満中年男性が廃バスの中でチェスをする。そこから物語がうごきはじめる。

 

小川洋子は、社会のはみ出し者をよく書く。物語の主人公として形作られる美男美女ではなく、現実世界では抑圧される人々にスポットライトを当てることが多い。 たとえば『博士の愛した数式』も、記憶障害を持つ数学者と母子家庭の親子(しかも息子“ルート”は頭部が奇形である)が主人公である。過食になってしまったことを恋人に言い出せない若い女(シュガータイム)や、老いた母のためにコンソメスープを一から作ることに生活の大半をつかう夫人(コンソメスープ名人)も。小川洋子がそんな作中人物たちにあてるスポットライトは、眩しい直射光線ではなく、やわらかい冬の陽だまりのような光だ。

もうひとつ、小川洋子の作品の特徴として多く用いられるのが「隠れ家」のモチーフだ。『薬指の標本』の朽ちかけたアパートや、『博士の愛した数式』の博士の住む離れの小屋。短編ならば『完璧な病室』、、枚挙に暇がない。その「隠れ家」というモチーフが最も有効に使われているのが『猫を抱いて〜』ではないだろうか。“マスター” の住む廃バスから始まり、からくり人形の中、山奥の誰も訪れない老人専用エチュードなど、外界から隔てられた小さな秩序の維持と綻びが、物語の中で何度も繰り返される。しかし「隠れ家」だからと言って外界を閉ざすために作用しているわけではない。狭いチェス盤の下にもぐることが、リトル・アリョーヒンにとって最も深く他者と対話する方法だったというだけだ。リトル・アリョーヒンにとって幸福だったことは、それを理解してくれる人々が周囲に多くいたことだろう。

 

この物語の中で大きな役割を果たすのがタイトルにも登場する猫と象だ。特に象は主人公リトル・アリョーヒンの幼少期の空想の友であり、かつインドチェスにおいてはビショップ駒にかたどられていた動物ということもあって大切な存在である。 日本でもかつてデパートの屋上に遊園地や小さな動物園が作られたことがあったと言う。リトル・アリョーヒンのイマジナリーフレンド、象のインディラはかつてデパートの屋上動物園で飼育されていた象だった。子象の間だけデパートが借り受ける予定であったが成長したために屋上から降りられなくなり、死ぬまでをデパートの屋上で過ごすことになったという哀れな象。リトル・アリョーヒンはこの象の半生と、肥満のマスターの凄惨かつ滑稽な死に方によって、大きくなることを極端に拒むようになる。彼の願いを聞きとどけたかのように、リトル・アリョーヒンの身長は11歳のまま止まる。

リトル・アリョーヒンが小学生の背丈で身長を止めたことは彼の願いそのものとは実際は関係がなく、単にそうなるべき体だった というだけなのかもしれない。マスターは職場ではとても疎まれ、嘲られていたかもしれない。それでも彼らの物語はなによりも神聖であたたかい。大きな声を上げようとせず、自分にできることを全うして人知れず消えていく人々の物語は、犬に追い立てられる羊のように闇雲に勉強していた私の目を晴れやかにしてくれた。

余談だが、その年のセンター試験世界史Bでは、「世界のボードゲーム」を主軸とした問題文でインドチェスが紹介され、ビショップと象について言及された。私のところにもインディラが来てくれたのだ、と殺風景な試験会場で嬉しくなったことを、はっきりと覚えている。