風車監督官日報

風車を監督している

OMORIをやったことによりゆらいだ水面などについて(ネタバレと言えなくもないネタバレ)

インディーズ制作のRPGゲーム「OMORI」

OMORI ダウンロード版 | My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)

をプレイした。

 眠る前に羞恥と罪悪感に苛まれる人はプレイすることを推奨する。(すこしホラーな描写があるけど)

まず自分の話をする。

 

小学校のたしか3年生の頃、冬に校庭が珍しく積雪して、日当たりの悪い北側が凍結して2週間ほど使用禁止になった。しかし誰かが入ったという話が先生に伝わり、ホームルームで議題となった。入っちゃいけない場所に入ったのが誰なのか知ってる人はいる? という担任の問いかけに、当時この担任に嫌われていた私は見直されたかったのかもしれない。ほんの数歩踏み込んでいた隣のクラスの同級生について報告した。私が見かけたのは、ほんの数歩入って雪を踏んでいる姿だけだ。そのくらいならみんなが入っていたからそいつだけが咎められるのは絶対におかしかった。けれど先生は1人見つかってもう犯人探しをやめたようだった。さらに何人かが、この同級生について別の悪事のことまで暴露し始めた。些細なことだし、おそらく事実じゃないこともまざっていた。同級生はいくつかについて否定したけど結局全てについて怒られ、数日後、なぜか告げ口した全員に謝罪して回っていた。なんでこいつは私になにかしたわけじゃないのに私に謝ってるんだろう?と思ったし、その謝ってる時の顔がずっと忘れられない。言わなきゃ良かった、余計なこと、と心底思った。自分が卑怯なことをしたと思ったし、とりあえず謝らせて目標達成にしようとする先生たちも意味わかんねえ、考えることを放棄してる、と思った。私が担任に好かれることも結局なかった。

 

こういうことについて、、まあもっと細かいことならもっといくつかあるが、、こういうことの記憶や、不意に現れた後悔と恥ずかしさは、ずっとまとわりつく。背後に張り付いて上から覗き込んできたり、合わせ鏡の奥の方に立っていたり、木漏れ日の影のもっとも暗いところにいたり、ドアの向こうにいる!という確信で立ちすくんだりというのは、誰もがある感覚だと思う(でないとやってけない)。誰でもある感覚なのだ、とプレイを通して確認できたのが、1番の収穫かもしれない。インディーズゲームとは思えないほどストーリーが長くて、作り込まれていて、結末への道のりが丁寧で分岐もたくさんある。それはこの物語が自分とのせめぎ合いだから。自分との葛藤なのだから、生まれ直すのに等しいのだから、その旅路は丁寧でなくてはいけない。

なにか大事なことを考えるのを避けてゲームや映画や漫画に没頭するうちに、忘れてしまったこともある。濁った水面と波打った水面の下は覗けない。でもやらなきゃいけないとだけはずっと思っていて、先延ばしにしていて、すればするほど刑期の伸びる孤独な罰だと信じ込んでいた。けれど、OMORIは大小あれど誰もが通る過程だと教えてくれた。覗き込もうとするたびに無意識に波立たせていた水面を、努力して澄ませて覗き込む必要のある人は私が思っているより多いらしいと知り、そのことだけでもこれから生きていけそうだ。