風車監督官日報

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兄妹(カシュニッツ短編集『その昔、N市では』)

マリー・ルイーゼ・カシュニッツ短編集『その昔、N市では』内の一篇「船の話」は、中年の兄が中年の妹を予定と違う船に乗せてしまったことから始まる。嫁いだ家に帰るはずだった妹は、永遠に終わらない奇妙な船旅の中に取り残されてしまい、兄は数か月してようやく届いたぼろぼろの手紙で、妹がおかしなことに巻き込まれ、もう戻ってこないことを知る。

読みながら、歳のいった兄と妹という関係に特有のじめ、って不思議だなあと思う。中年の兄妹と聞いてすぐ思いつくのは「赤毛のアン」のマシューとマリラ、そしてフリオ・コルタサルの短編「奪われた家」で明示されない脅威に家を追われた兄妹あたりか。後者の方はかつて通っていた高等教育機関の外国文学精読の講義で扱われた際、キリスト教徒の学生がはっきり「近親相姦の気配がする」と嫌悪感のにじんだ感想を述べていたのが印象に残っている。

祖母がグループホームに入居した際、祖母の兄、私からしたら大叔父、にそのことを知らせたところ、あまり興味がないし見舞いに来る気もないようで、こちらの話をさえぎって株で儲けた自慢話をされ私と両親は鼻白んだ。母は薄情だと怒っていたし私も概ね同意だが、半世紀以上前に嫁いで法事でしか会わない妹など案外そんなものかもしれない、逆にいつまでも仲のいい兄妹って、、とも思った。親への感情には愛か憎しみしかないが、兄弟姉妹は人によっては無関心もありうるような気がする。だからこそ、いい歳して仲の良い兄妹にはなにか危うさを感じるのだ。

 

「船の話」の兄妹が赤毛のアンや奪われた~の兄妹と少し雰囲気が違うのは、各々が結婚して家庭のあるからか。後者二つは結婚に失敗して社会的に微妙にコース外にはみ出た二人の相互依存っぽさがあるが、「船~」はお互い既婚な分、さらに背徳的な関係の気配がしてしまう……のは私だけだろうか。もしかしたら五島諭の

海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている

という短歌を私が知っていたから、己の過失を責めながら無事を案じて水平線を見つめる兄の視線の熱量の受け取り方が、この歌に引っ張られたかもしれない。さらに言えば、終わらない船旅に引きずり込まれたとき、妹が決死の思いで書く届く保証のない手紙が夫ではなく兄宛というのも、そう思わせる材料な気がする。

その昔、N市では カシュニッツ短編傑作選 - マリー・ルイーゼ・カシュニッツ/酒寄進一 編訳|東京創元社

『緑の祠』 五島 諭|新鋭短歌シリーズ|短歌|書籍|書肆侃侃房