風車監督官日報

風車を監督している

それが怒りではなかったとずっと後になって気づいた(サリンジャー「ライ麦畑」他)

書評投稿サイト「シミルボン」に別名義で投稿していたものを加筆修正しながら移植しています。

 

 

中学3年生の夏の帰省のことだったと思う。祖母の家の裏から持ち帰った四葉のクローバーをいとこに見せびらかしていたら、叔父が「押し葉にしてあげるよ」と本に挟んでくれた。そして東京の家に帰る日、叔父は「いらない本に挟んでおいたから、本ごと持って帰っていいよ」と1冊の文庫本を渡してくれた。J・D・サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」だった。古いしシミだらけだしなんか茶色いし臭いし、本棚から一番汚いのを引っ張り出してきたんだろうと思ったので疑わずにもらって帰ったが、学校教員の叔父のことだから、今思えば本当に「いらない本」だったのかはわからない。

ナイン・ストーリーズ」ってサリンジャーの作品だったのか、と点と点が繋がってページをめくったのは高校に上がって「ライ麦畑でつかまえて」を読んだあとだ。それは、全く初対面だと思って挨拶した人に、幼い頃に一緒に砂場で遊んだことがあるんだよと言われたような不思議な感覚だった。
それ以来なんとなくサリンジャーは身近な作家の一人で、特に「バナナフィッシュにうってつけの日」「フラニーとズーイ」「ライ麦畑でつかまえて」は何度も読み返した。白水Uブックス版の「ライ麦畑〜」は、多くのサリンジャーファンがきっとそうであるようにもうボロボロだ。野崎孝によるホールデン・コールフィールドの、横に座っている友達に語りかけるような口調は高校生の私に対してもとても優しかった。

 

ライ麦畑〜」が悲しいのは、ホールデンの苦悩が周囲の大人やクラスメイトにてんで相手にされないことである。チェッカーでキングを動かさない女の子がいかに魅力的であるか(これチェッカーやったことないからニュアンスがよくわからないんですけど)や、池のアヒルがどこで冬を越すのかという話をまじめに聞いてくれる人間が彼の周りには誰もおらず、みな、「まともな大人」になれるようホールデンを説き伏せるばかりだが彼らは誰一人としてホールデンにとってまともな大人ではない。なぜか青春小説(の金字塔)というふれこみで語られがちな「ライ麦畑でつかまえて」だが、一般的に言われる青春小説、ジュブナイル小説とは違うと私が思う点は、ホールデンが「成長」しないことだろう。ホールデンは作中一貫して、欺瞞や諦めへの迎合を固辞し続けている。そんなホールデンの姿は粗暴で不真面目に見えるから、誰もホールデンの苦悩に気づかない。ホールデンが唯一心を許せるのは亡き弟アリーと幼い妹フィービーだけだが、アリーは死んでしまっているしフィービーはまだ小学生でホールデンの苦悩を共有させるには幼すぎる。
 私は一人っ子で、兄弟で秘密を共有したりまたはいがみ合ったりという経験が一切ない。ホールデン回転木馬に乗るフィービーを慈しむ様や、グラース家の兄弟たちの遠慮会釈なくののしりあう会話はその点で私にとっては少し羨ましいものであった。親といると子供は「子供」でしかいられない。子供というのは、家族というロールプレイングの中で圧倒的に被支配者だ。友達よりも親よりもなんでも話せる、全力でぶつかり合えて対等な関係の兄弟がいるからこそ、ホールデンもフラニーも大きな孤独や悲しみの中にいながら、口を閉ざさずに済んだのではないだろうか。反抗期がなかった、と親によく言われる私だが、それは今思えば怒鳴り方を知らなかっただけなのだろう。

 我が家の本棚にある「ナイン・ストーリーズ」を開くと、カサカサに乾いた四葉がまだ挟まっている。それを見ながら、アリーが死んだ夜にガレージの窓を叩き割ってぐちゃぐちゃになったホールデンの拳のことや、シーモアに会いたいと泣くフラニーのことをなんとなく思い出した。